松井眞珠店

MATSUI PEARL

“Shinju-to”

真珠糖裏話

真珠糖

 明治維新から10年、日本が急激に変化している頃、時代に取り残された志摩の海辺で、松井真珠店初代 永次郎が誕生した。志摩の国、布施田村で江戸の頃より回船問屋を営み、その財力によって得られた天然真珠を扱う権利は、父の永作とその家族の生活を豊かに潤していた。

英虞湾の天然真珠は、有史以来、国内外共に人気が高く、それを扱う権利は選ばれた少数の者に限られていたのである。それだけに息子の永次郎への期待は父としていかばかりのものだっただろう。地元の公立高校を終えると当時では珍しかった津にある私塾へ進学させたのだった。

海女達によって採取された天然真珠は永作の手によって、流通の中心である堺の浜寺(現大阪)へと運ばれる。「志摩を出て、伊勢を抜け英虞の海から離れていく距離に比例する様に値段が跳ね上がる。」そう言われた時代である。息子の永次郎の進むべき道も真珠以外には無いと思っていたはず。

しかし、永次郎本人は医者になるのが夢だったと語っている。近所で子供が発熱したりすると夜中であっても、松井家の戸口をたたく。解熱剤としてケシと呼ばれる天然真珠を貰いに来るのだ。たとえ、どんな時間であってもケシを焙り、乳鉢擦り、手渡していた父の姿を見て育ったからかも知れない。
藤堂藩のお膝元での勉学は学問だけではなく、書道、絵画、そして茶道の世界にも眼を開かされていったらしい。後年宝泉、老して不濁と号し、地元、布施田の住職より筆が立つと言われた作品を多く残している。

いまだ近境の地であっても、京都、東京在住の文人たちとの交流があったことが残された手紙から見て取れる。中でも京都の画壇、堂本印象とのえをめぐってのやり取りの手紙は、自信に満ちた永次郎の性格が読み取れ、美に対する探究心の熱が伝わってくる。松井真珠店の美学の始まりが、ここにある気がしてならない。

今につながる拘りの話が残っている。松井真珠店で販売している和菓子「真珠糖」にまつわる話である。抹茶、煎茶を愛する永次郎は茶菓にも拘り、ある時、蛤や巻貝の菓子は全国にあっても、あこや貝の形をした菓子が何故無いのか。思いつくとすぐ行動する血脈は、ここから始まったのかもしれない。私塾で共に学んだ菓子舗の元へ駆けつけたのである。

創業慶長五年、四百余年の歴史を背負う、伊賀上野随一の老舗桔梗屋織居であった。友に懇願したのは、菓子木型の作成であり、条件も一流の職人の手で忠実にあこや貝を彫るというもの。突然の依頼に迷惑されたに違いない。注文者の拘りが伝えられ受けた職人の苦労も解る気がする。

しかし、そうして彫られた型は美しくはあっても、菓子を作る型としてはあまりにも繊細すぎ、薄すぎて菓子の型に留めるには無理があった。 結局美しい型は、芸術作品の一つとして庭先の蔵の中にしまわれてしまう。

昭和20年春、終戦を待たずにして永次郎は七十年の生涯を終えた。その後松井真珠店は二代目の雄策、三代目の耀司と引き継がれ、現代の平成の時代を迎えることができた。

平成十六年、来年は創業百周年を迎えるというある日、三代目によって、くだんの木型が蔵内で発見されるのである。勿論、この木型の存在も由来も知らないわけだが、その美しさ珍しさに惹かれ百年の祝いの品に作れないものかと直感、思いたつとすぐ行動する血脈が、ここでも発揮されることとなる。

初代 永次郎の築いた縁が再び繋がる瞬間でもあった。三代目もすぐさま、伊賀上野へ飛んで行ったのだ。勿論、今は十八代目となった老舗 桔梗屋織居の元へ。

この木型で特上の菓子をと突然依頼された十八代目も困惑されたに違いない。しかし、その願いは叶えられた。菓子の形と留める為に何度も何度も配合を試された事だろう。十八代目の努力なしに形になることはなかった「真珠糖」である。

「真珠屋なのにお菓子を売っている。」と言われるのは、不思議な縁と拘りのお陰なのである。